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「信じる」−盲信?宗教にはまった?−その1

公開日: 2008年8月27日水曜日 「霊的修行」 宗教にまつわる話



「霊的修行をしています」

ということは、世の中の見方では、
自分は宗教をもっていることになるらしい。
ところで、世の中には
トレーニング書を片手に筋力を鍛える運動をするのと同じように、
本を片手に一人で霊的修行をする人もいるらしい。

それが霊的修行なのか自分には疑問である。
というのは、
師や高級な霊的存在から指導を受けてこそ
「霊的修行」であると自分は思っているからだろう。
となれば、
やはり人から見ると、高級な霊的存在を前提としている自分は
宗教をもっていることになるのだろう。

で、現在では自分はそれでかまわないと思っている。

ただ「宗教」という言葉が、
どうにも自分の周囲では居心地を悪くさせるニュアンスをもって使われるようで、
この辺がなんともむずかしいと感じる。

「あんた、欺されてるんじゃないの」
これは、身近なある人に言われた。

「いったい何にすがりたいと悩んでいるの」
これも言われた。

「人に迷惑をかけないでね」
え?
宗教って人に迷惑をかけるものなのだろうか?
まあ、そういう出来事もあったからか。

「何も宗教にはまらなくても
 神社にお参りにいって
 仏壇に手を合わせて
 先祖供養して
 神様や仏様っているんだなって
 思っていれば、それで十分いいじゃないの」
うーん、困った。
それは・・・実は・・・まあいいか。

ともかく、自分の身近の人達は、
老境の域に達したわけでもない、社会的に活動せねばならない男が
「宗教にはまった」
と目に映る状況に危惧を抱いているのでした。
(一応、生活破綻にならないよう仕事はしているのに)

よからぬものを盲信しているのでは?

と感じているように思われます。

「盲信」については
ちょっと考えていることがありまして
いつか書ければ、と考えています。

さて、
「霊的修行」をいくらか続けてきて、思ったのですが
この「信じる」ということが、
相当に重要で、ある意味これは霊的修行の極意ではないか。
という考えが力強く生じてきました。

と、文字にしてみたものの
この感じを人に伝えるのはむずかしく思えます。

「信じる」は極意なんです、きっと。
そして、これがなかなかにむずかしいのです。

だから、霊的修行は「宗教」で
かまわない、と思います。


※ウィリアム・ブレイク『ロスの歌(The Song of Los)』1795  より
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