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現代人に「霊性向上」は超難問かもしれない

公開日: 2008年8月30日土曜日 「霊的」ということ


以前の記事に少々書きましたが、宗教的な道、霊的な道、霊性向上への道は
「信じる」という行為を無視できないものであると自分は思っています。

さて、
一方で現代の人は「理の通った考え方」以外は
出来なくなったのかもしれないとも感じます。

言い換えると
「合理的」「論理的」以外の「考えること」が出来なくなった
ということになりますか。

例えば、現代の人に
金剛般若経の後半に繰り返されるパターンを示すと、
訳がわからなくなり、何とか解読したくなるようで、
これを
(いつの間にか宗教ではなく哲学・論理学的にみなして)
論理的パラドックスとか「即非の論理」だとか言いはじめて解釈に
走るようです。

いわゆる、以下のスタイルなんですが・・・

「Aは、Aでない、ゆえにAと言われる」
もしくは
「Aは、Aである、ゆえにAでないと言われる」

例)「あらゆる真理といわれるものは実は真理ではない」
  と仏によって説かれている。
  だからこそ「あらゆる真理」と言われる。(17・d)

でも・・・
そもそも、この語りは、
真理や求道者や智慧の完成についてや如来(仏)が説いたこと
などなどについて、言っているので
「石は石じゃない、だから石だ」とか
「花は花じゃない、だから花だ」とか
存在学一般論のような話じゃなく、
仏道と真理を考える話だったはずなんですけど

いつの間にか、存在についての変に高尚な超論理学?非論理学?
のような感じで、皆さん話をしているのは、
如来(仏)や真理を置き去りにしちゃったんですかね。

真理よりも論理の方が好きなのかな?

まあ、ともかく
なぜ、多くの方が、金剛般若経をいちいち
分けようと、分解しようと、「論理的」に読もうとするのか・・・
そっちの方が、よほどパラドックスに感じます。

で、長い前置きでしたが、
こんなことをやってしまう現代人は、頭が良すぎるがゆえに
霊性を見つけるなどできないのではなかろうか
不安に思うわけです。
(自分だって「できるか?」と聞かれたら自信ありませんけど・・・)

金剛般若経って、おそらく本来は、
真理を知り、信仰を堅固にするものなのでは
なかったのでしょうか?

だからむしろ・・・
須菩提(スブーティ)長老のように

「師よその通りです。」
と師の説かれたところに歓喜し、讃え、
真理や法に対する信仰を強くすると言う話になれば
いいと思うのです。

なのに、そうならずに、
論理的解読に「真理」を見つけようとして
信じるということや道を歩む求道者がいることを忘れてしまって
宗教的な求道が置き去りになってしまうところが
タイトルに書いたことを考えてしまう1つの点です。


(余談ですが、
 旧約聖書のヨブ記も同じように求道的な話だと自分は思っています。
 いずれ書きたいと思っていますが、神とサタンの会話は、
 ヨブの不幸に原因を示さなければ辻褄が合わなくなるので
 どちらかというと作成者側の都合で話を追加したかのようであり、
 そこにこだわると、現代人には「神」がますますわからなく
 なるので、むしろそこはオプションとして流して、それよりは、
 そのあとのヨブの独白そして、再び神への道を見い出すまでに
 至る道が、本当のテーマだと自分は思っています。放言失礼)


でも今回の記事はちょっと「理屈」をこねまわし
遊びすぎたかもしれません。
自分こそダメですね。(T_T)


世の中では「盲信」を嫌うのでしょうけれども
そのあまりに
「信じること」に論理や分析やもっともらしい「理性」を持ち込みすぎて
かえって疑念に苛まされて
高級な霊的存在への糸(意図)がつながらなくなっているのではないかと
自分は思うのです。

上に示した、ある宗教的な詩集の挿絵のように
天の御使いと糸がつながっていれば、
迷路に落ち込むこともないのでしょうが、

現代人の知性や論理性は、天の御使いとの道しるべの糸にすら疑問を感じ
糸を手放してしまいかねない。
となれば、挿絵に何人かいる人のように霊的迷路に迷い込んでしまう。

霊的な道、霊性向上とは、
高級な霊的存在を認めて信じることが重要で
この道を行くならば誰もが
(特に現代人は)
盲信?欺されている?間違えている?
などの疑問と戦うことは避けられず、

是か非か、それを見抜くのは簡単にできることではなく
だからこそ、やっと天の御使いと糸がつながったのならば
それに勝る道しるべはないと確信する道なのだと思います。
だから確信に至るまでの自分との戦いは避けられないのかもしれません。
そういう意味では、「○○さえすれば大丈夫」といった
安易な道ではないのでしょう。

やっぱり、
現代人に「霊性向上」は超難問かもしれないです。
お気軽な方法を求めたり、他の評判や自分の勝手や都合を振り回し、
確信に行きつくまでにやめてしまうからでしょう。

とはいうものの自分も人のことは言えず、
人のことをあれこれ言う前に己の道を進むことに邁進し、
「確信・道しるべの糸を手放さない」
という道をやめずにどこまでも続けたく願うものです。


※挿絵は、
 Angelus Silesius "Cherubinischer Wandersmann"1675
(邦訳「シレジウス瞑想詩集」)のいくつかある版のうち
 Manesse Verlag(マネッセ本)にあるもの


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