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それにしても、説明しづらい「霊的修行」の感想

公開日: 2008年9月2日火曜日 「霊的修行」


いま、霊的修行を経て受ける感じについて考えれば考えるほど、
以前に、
「霊について書かれている本を読めばより霊的になれる」
と考えていた自分が情けなく思える。

「霊的修行」のもつ体験は自分には大きいものであったからである。

しかし、自分の行っている「霊的修行」は、一言で言うと
高級な霊的存在から見えやすいように、接点を持ちやすいように
霊的状況の向上をめざすもので、非常に地味である。
(人間からみれば「地味」らしいが、実は「地味」ではないらしい)

したがって
巷で言う「霊能力」を求めない。

「霊感」や「霊能力」は、むしろ人間を操作しておもしろがるような霊魂のほうに注目されやすいようで、
そういった存在には、さも、もっともらしく接近し、干渉するまたとない機会のようです。

それはともかく
禊(みそぎ)や鎮魂(ちんこん)を行っている自分の場合、
修行の成果は師や指導していただいている霊的存在に尋ねなければわからないので、それは置いておくとして、

実践する身として、霊的修行を経るとどういう感じをうけるのか
それについて、自分を振り返るきっかけのひとつとして
説明してみることにする。

さて実は、
「霊的修行」を続けて、あるあたりから、
うまく言えないのだけれど、しみじみと、しかし印象深い感じが
湧き上がってくることに気づいた。

この感じは「感動!」とか「すごい!」という単純なものではなかった。
自分の場合は、なんだかわかりづらい感じで、だからこそ
他の人に説明もしづらく、言葉に表現しにくい。

中には、「感動!」「すごい!」という明確な感じを受ける
修行者もいるかもしれない。

それはとてもうらやましい。

しかし、自分の場合は残念ながら、そうではなかった。

それに「神秘体験」と呼べるようなものも未だにない。
(変な神秘体験は、ない方がいいかもしれない)

そんな地味な経験しかないのではあるが、
霊的修行を経て受けるこの感じは、不思議である。

人生の経験上、似た感じを探しにくい。

あえていうと、
奥の奥で、静かに水が流れ続けている
というような感じである。

とはいえ、この説明も、言葉にしてしまうと何だか少し違う。

霊的修行とは、
真剣に打ち込み、続けるのもなかなかむずかしいが
体験を人に話すのもむずかしい。

しかしながら、自分にはこれは意味深い「感じ」である。

(けれども、常に感じるわけではないし、
 その感じを期待すると修行がうまくいかない。
 感じにとらわれるのもあまりよくないようだ。
 やはり霊的修行は、実行・継続も難しい)


※アルノルト・ベックリーン 『聖なる森』 1882
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