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「人間」になりたい・・・

公開日: 2008年9月17日水曜日 「霊的修行」

 ※カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ『リーゼンゲビルゲ』1835

 この絵は不思議だ。
 まるで、人間の霊的な姿を表している・・・
 と、20代の当時の僕は思っていた。

 人間の心…手前の山肌と岩の不規則な並び
 幽体の心…中腹の所々ぼやけている山々
 霊体の心…うっすらとしか見えない雪の山頂


20代のある時、妙な想いをもった。

「自分は、本当の意味では
 『人間』になっていないのではないか?」

うまく言えないのだけれど、
『人間』という存在の仕方がある、と思った。

人間は、ただそれだけでは『人間』には
なれないように思った。

自分は、今(20代のその頃)
「人間」になれるかどうかの試験の最中では?
という空想じみたことを考えることもあった。

「本当の人間」
西洋の神秘哲学では『アダム・カドモン』とかいうらしい。
詳しくは知らない。

とにかく、自分は実感として

・いつかは『人間』になりたい
・今の自分は『人間』という状態ではない

と感じていた。
せめて・・・そうせめて、
40歳くらいには『人間』になっているだろうか?

20代の頃、
欠点だらけの自分に幻滅したり、
ただただ、食べて寝て動いての繰り返しの自分が
「人間」になりそこなった「モドキ動物」に見えたり、

そういったことに思い当たる度に
せめて、いつかは「人間」に・・・
40歳くらいには・・・
と考えていた。

そして、本当に
答えは40歳くらいにやってきた、と思う。

いくら本を読んでもわからない感覚。
思考や想像からでは出てこない感覚。

それは、霊的修行にあった。

神伝禊法の最初の段階ではあれども
打ち込み続けていた時に

「禊をしている自分」

をふっと、地味に感じ取った。
はて、これは・・・

自分はそこに「しあわせ」を感じたが
こう言葉にしてしまうと、
何かを言い忘れているようだ。

単純な「しあわせ」ではない。
なんというか、

何かこう、あるべき状態に居つつある
とでもいうのか、
自然にそうある状態になっている
とでもいうのか、
それでいて、修行が続くのは苦にならなく
むしろ、喜ばしさであるというのか、

とにかく、漠としているが
地味な充実感と静けさのくっついた感じ・・・

一言で言うと
「充実感」「しあわせ」になるのだが

やはり、言葉は不自由だ。
その表現は、大事なあることを
削ぎ取ってしまう。

しかし、他にうまい表現がない。


とにかく、
「霊的修行」が自分にもたらしてくれたもの
その一つに
20代の頃に感じていたことの答えがあった。

『人間』になりたい、ということの答えが・・・


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