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ラザロは待っている・・・

公開日: 2008年10月10日金曜日 「霊的」ということ 宗教にまつわる話

※エトガー・エンデ「ラザロは待っている」1960


一見薄気味悪い絵だが、
自分にとっては好きな絵の一つである。

ラザロとは、ヨハネ福音書に登場する人物である。
イエスの御業によって生き返り、布を巻かれた状態で洞穴の墓から登場した人物である。

しかし、この絵は、単に「ラザロ」を描いたという感じではなく別のものを感じる。
それは、数多くの雨傘や車輪付きの屍体を運ぶ台車などの描写の所為でもあるだろう。

では、自分の考えを述べる。

もしかしたら、この絵からは、
我々の「霊的な自分」の姿を図像的に見渡すことが
できるかもしれない、
この絵は、そんな絵ではないかと自分は思っている。
(作者の実際の意図はともかくとして)

絵が全体的に暗いのは
墓の中であるからなのだが、もう一つは
我々の「霊的な自分」がそもそも明るくないことの表現。

数多くの乱立する雨傘は
自分の中に潜む、それぞれの自分がバラバラに群がっている姿で
それぞれの自分達は不明瞭で照らされることを好まないため、
まるで夜の動物のようにひしめいている。

また、傘の下がよく見えないが、
傘の下には、それぞれの自分のマイ・ワールドが展開されている。
そしておそらく、夢想的で、他を押しのけて主張しているのだと思う。

では、ラザロとおぼしき包帯で巻かれた人物は?

おそらく、この死んでいるかのような
顔も姿もよくわからない人物こそが、
われわれ人間の中の「霊的な自分」の本体とも呼べるものだと思う。

しかし、残念ながら、
死んでいるかのように眠っている。
つまり、人間は、普通に生活していると
「霊的な自分」は、
死んでいるかのように眠っているのだろう。

そして、高貴な存在や高貴な御力の導きがあって
目覚めてくるのだろう。

ちょっとくらい高尚なことを考えたり
霊的なことに浸ったくらいでは
「霊的な自分」は目覚めない。

高貴で強い、
霊的な力との縁や交流を通して、ようやく
「霊的な自分」であるラザロは復活する。

ちょうど福音書での「ラザロ」の復活に
イエスが関わったように。

となると、
多くの人はいつ、
「霊的な自分」すなわちラザロが目覚める機会を得るのだろうか。

下手をすると、
「霊的な自分」であるラザロが目覚める前に、
肉体が死を迎え、
結局、霊的には大して意味がなかった、
という残念なことにならないのだろうか?

人間の
「霊的な自分」であるラザロは、
目覚める時を待っている。
目覚める機会を待っている。
目覚めるための高貴で強い力との縁や交流を待っている。

ラザロは待っている・・・

人々の中で眠っているラザロは
いつ目覚めるのだろうか?


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