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行法がうまくいったかどうかをどこで判断する? その1

公開日: 2008年10月13日月曜日 「霊的修行」


伝授を受けたので、日々、行法を行っている。

「行法」では堅苦しい印象があるので
「霊的トレーニング」と言い換えてみることもあるが
やっていることは変わらない。

若干の違いは、「修行」「行法」には「苦行」のイメージが
一般的につきまとうが、
決して「苦行」に走るわけではない
ということを強調したい時、
「霊的トレーニング」と言い換えることはある。


「苦行」でないのならやさしいのだろうか?


ところが、この「霊的トレーニング」は
動き自体を進めることはさして何でもないが
違う意味で「むずかしい」

その「むずかしさ」は、
行法や霊的トレーニングを実際に行っている人間でないと
伝えづらいので、ここでは書かない。


では、表題にも記した
行法がうまくいったかどうかをどこで判断するのか?
ということだが・・・

自分も、
「行法がうまくいったかどうかをどこで判断するのか?」
これについて知りたくて、確信を持ちたくて
焦った。

で、結果、
自分なりの結論は・・・

「わからない」

ということであった。


このことを納得するまで
若干もがいた。
ジタバタした。

しかし、やっぱり
「わからない」ことは「わからない」のである。

考えてみれば、
霊的な事柄を
肉体の脳が主として形作っている
通常の「意識」で
簡単に判断できるはずがない。


そう割り切って
ただただ「行法」「霊的トレーニング」を続けた。

まるで、もやもやしたものが
次第に形になっていって
曖昧なものから堅固なものに変わればいいなと願いつつ・・・

ただただ、続けた。

この行為は、
ふわふわしたものから、
しっかりとした「石」になっていくような
そんなものかもしれない・・・

修行自体が「石」なのかも・・・

などと空想することもあったが
これは余計な空想であり、
多分、自分の勘違いであり間違いのような気がするので
この記事を読む人にはスルーしてもらうことにして・・・


話を戻すとして、
「行法がうまくいったかどうかをどこで判断するのか?」

これについては
さっぱり、わからないまま
ただただ「行法」「霊的トレーニング」を続けた・・・

おそらく、これが
霊的修行における最初の一歩
なんだろうと今では思う。

どうも、
変な力みは、かえって「失敗」するような気がするし、
であるならば、
さっぱり、わからなくてもいいので
ただただ、打ち込む方が良いように思うからである。


ただ、以上のことは
私、石枩(いしまつ)の個人的な感触なので
他の修行者の方は
違う印象や体験を持っていることも当然あります。

なので、悩む方は
集会や支部集会などで
諸先輩にお尋ねになると良いかと思われます。

もちろん、私にメールでも(プロフィールにリンクあり)
かまいませんが、
初めの紹介文に書いたように
私、石枩はまだ修行の道の
初めの方ですので
その辺を御了承下さい。

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※補足

確かに1回1回の修行における「うまくいったかどうか」は
なかなかわかるものではないけれども、
長期的なスパンでの霊的成長は、
霊的調査をうけることで明らかになり、
今後に向けての指導を受けることができるので、
全くの五里霧中というわけではありません
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(つづく・・・そのうちに)


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