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「常識」の崩れる時・・・

公開日: 2009年1月4日日曜日 宗教にまつわる話


生きていくことが、それほど辛くないのであれば、
いつしか、日々がルーチンやノルマになってしまう。

生活費を稼ぐという点からは、
そうなる傾向も致し方ないのかもしれない。

しかし・・・

日々が形式化され
近い未来の予想が、崩れることもなく
当たり前のように繰り返される時。

人はそれを「平和」というのかもしれない。
人はそういう状況で安心するのかもしれない。

だが、
そこには変化も進歩もないようにも見える。
なので、
人によってはこういうことをいうのかもしれない。


「何の進歩もない牢獄に等しい」
「生きている意味すらもない」


いや、流石にそういうことを言う人はいないか・・・


まあ、
変化も進歩もない単調な毎日も
自分の子供の将来を支える労働であると考えれば
希望という未来へ続く一歩一歩の道なのかもしれない。

ただし、
子供に過度の期待をし過ぎないことが
大事かもしれないのだが・・・


さて、
こういった変化も進歩もない、繰り返される平和な日々
言い換えてみて
「常識」的な日々というのは、
人間にとって本当のところどうなのだろうか?

実のところ
自分は、下の絵を思い浮かべてしまう。

ゴッホ『刑務所の中庭』(1887)


繰り返される単調な日々とは
「常識」的な日々とは
もしかすると
この絵のようなことではないだろうか・・・

これは、
この絵の書いているところは、

すなわち「運動」なのだが、
ただし、広いところに行くことが出来ないため

狭い空間で、
同じ小さい輪のコースを
ぐるぐると歩き回る。


そう・・・
すなわち「運動」


これを人間の人生の縮図として見直してみるとして
いったい、
何十周したら
何百周したら
人生が終わって「死」となるのだろう?

いやいや
そんなような、
同じところをぐるぐる歩き回るだけの
何十周、何百周も歩き回るだけの
単調な日々の繰り返しを
「人間の人生」としてもいいのだろうか?

となると、
もしかするといつの日か、

自分たちの自業自得でか
見かねた高貴な存在の助力によってか
どういういきさつかは不明だが、

単調な「ぐるぐる」という「常識」は
崩れてしまうかもしれない。

しかし、
「常識」の中で生きている存在にとって
「常識」が崩れる時、というのは
途方もなく「恐ろしい」事態であることが多い。


(外国の人はどう考えるかわからないが)
今の日本人は、
突然、日々繰り返される「常識」が崩れたら
下の2つの内、どちらの対応をとるのだろう?

「チャンス!」と思い創造的に生きて行くのだろうか

それとも

「こんなはずじゃなかった」とおののくのだろうか


おそらく、
自分たちの自業自得の結果にせよ
必要な気づきを与える存在の働きにせよ
いつかは
「常識」の崩れる時
それがやってくる。
その時、日本人はどうするのだろうか?

え?
結局そんな時は来ないって?

いやいや、
そうであっても
「自分の死」
という究極の時が来てしまうのです・・・

さて・・・


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