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日記・2月23日(月) 「宗教を話せなくなった日本人」

公開日: 2009年2月23日月曜日 普通の日記


(以下は、個人的な見解ですので、間違える可能性があると思います。)

例えば、
日本の精神的土壌や、道徳の根幹は「武士道」である、と話す人がいるが、
日本の文化の一部ではあるかもしれないが、
根幹といわれるとものすごく奇妙に感じる。


確かに、武家の生まれの者はそういう教育を受けたのだろう。

しかし・・・

過去の日本人の大半が「武士」だったのだろうか?
過去の日本人の大半が「武士道」を学んでいたのだろうか?

どうもそうは思えない。
むしろ、寺子屋で仏教的説話を聞いていた、と説明される方が
まだイメージしやすい。

また、こういうことが言われる場合、
「武士道」という言葉が何を言い表しているかよくわからない。

もしや「武士道」という言葉の雰囲気に惑わされていないだろうか?

それは、
本質よりもスタイル先行で「道徳」を考えている?

・・・

まあおそらく、
明治以降の近代日本のあれこれと現在に至る結果から
日本人は、「宗教」を口に出しにくくなった。

その結果、
日本の精神的土壌として比較的無難に話せることが
「武士道」くらいしかなくなったように思うのである。


妙なことに、「武士道」を打ち出したのは
明治時代のキリスト者の立場からであった。
彼らは、キリスト教の根付かない「日本」を
探求する必要があったらしい。
「日本」の精神的土壌を探し出したかったらしい。
そして、
それを肯定的側面として「武士道」として打ち出した。

しかし・・・

日本の精神的土壌や、
日本人の道徳は、そう単純ではなく
独自の混成された宗教的世界観の影響が
かなりあるはずである。

そもそも
道徳は、単独に誕生するものではないだろう。
その背景に宗教的世界観の影響や宗教的価値観の影響があるはずである。

その背景を語らずに「道徳」や「倫理」から話し始めると
なにやら抽象的で観念的な話になり、
挙げ句に、教育と称して
子供たちに文言の暗記を強要する話で終わってしまう。
(「◇◇勅語」?)

そこには、宗教を忌避してしまって
「道徳」というがらんどうになった偶像を手にした
間違えた信仰者のなれの果てが見えてくるのみである。


残念なことに、自分も通常の会話で「宗教」を肯定的に語ることは
あまりしていない。
これは、反省すべき点かもしれない。

人々は「宗教」という言葉に
「盲目性」「熱中性」「依存性」しか意味を込めなくなってしまっている。

本来なら「宗教」という言葉に最も深く込められるのは
・神仏など高貴な存在を受け入れること、あこがれを持つこと
・「聖なる"saint"」ということがあるのを受け入れること
・以上から人生を問う新たな価値観が生まれてくること

ではなかったのだろうか。

現在、人々が宗教というと、
上記の「高貴な存在を仰ぐ」行為や
人生を問う価値観の新生やそこからくる「こころの充実」を語らず
「盲目性」「熱中性」「依存性」ばかり語る。

これでは、確かに道徳の危機を叫ばれても
仕方がない・・・

でも、本当は道徳の源になる
宗教性が後回しにされたことが根本の問題のように
自分は思うけれども・・・






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