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文献主義

公開日: 2009年4月13日月曜日 「霊的」ということ 宗教にまつわる話


ある種の宗教、学問、教えは、
創始者のあらわした考えを示す文献を「原典」とし、
その「原典」を重要視する。

「原典」がどのような経過で
形になったのかは
様々ないきさつがあるのだろう。

おそらく当初は、
重要な語句や説明を
一言も漏らすまいとする
弟子たちや、
周囲の学ぼうとする人達の
強い情熱によって、
形づくられたのだろう。

また、
原典を学ぶ者は
言葉の言い回しや表現などではなく
言葉の奥にある「生き生きとした何か」
そうした重要なものを
自分の身に取り込もうとして
熱心な生きた言葉を呼吸していたように
自分は思う。


ところが、

時代を経て、
弟子や学徒と呼ばれる者達が
賢くなると

原典から
「生きた言葉を呼吸する」
と言うよりは
比較検証して
分析に走ってしまうようである。

どうやら、
それを学問的発展と呼ぶようである。


しかし・・・

そりゃあ、弟子としては
失格かもしれない。


賢い弟子や学徒は
「原典」マニアにはなるだろうが

どんなに「原典」に詳しくなっても
どんなに「原典」の分析が上手になっても


霊的成長とは無関係であろう。

なぜなら、
賢い弟子や学徒は
「正しい」「正しくない」としか分類できない


もはや
「生きた言葉を呼吸する」すべを知らないのである。


ある日、
昔に「原典」を作ろうとした
情熱ある弟子たちの残した不思議な力で


「原典」は失われてしまうかもしれない。


賢い弟子や学徒たちは
「なんという悲劇だ!」
「悪魔の仕業だ!」
と言うのかもしれない。


しかし、
情熱ある昔の弟子たちはこう言うのかもしれない。


「悲劇というのなら、
 それはむしろ、
 言葉尻や言い回しでしか
 原典をとらえられない
 愚かな弟子や学徒の出現こそが
 悲劇である。

 汝らの原典に対する態度は
 創始者の尊さを侮辱している
 
 もはや、このように
 『正しい』『正しくない』という
 言い争いからは、
 価値あるものは何も生まれない。

 汝らがそのように文献主義で
 『原典』をあがめるのなら、
 『原典』には存在価値がない

 『原典』を読んだか読まないかで他者を判断し
 『原典』に詳しいか詳しくないかでレベルを判断し
 『原典』の解釈が正しいかどうかで言い争いを続け

 そんな、つまらない人間的な見栄のために
 『原典』を持ち出すのは
 創始者や尊さに対する大変な侮辱である

 もういい、
 これで終わりにしてしまおう。」


 かくして、
 またひとつ、過去の息吹の灯火が消えてゆく・・・

 のだろう・・・


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