【 はじめに 】

ワタクシは契山館霊的トレーニングを実践し、水波霊魂学を学ぶ途上の未熟な一修行者であり、本ブログは個人的見解で記載していますので、内容は私の理解度によるものです。したがって内容の間違いや不備は私個人の責任です。

記事についての問い合わせや質問がありましたら、コメントへの記載やメールをいただけますと、できる範囲でお答えしたく考えております。 

ishimatsu☆aol.jp 石枩(いしまつ)(@を☆に置き換えて表示しています) メールの内容によっては返答致しかねることもありますのでご了承下さい。

ブログ本文ならびに図画については著作権を放棄しておりませんので、本ブログの無断転載・無断引用はお断り致します。

残酷な能力の差、さて・・・

公開日: 2009年6月29日月曜日 「霊的」ということ 「霊的修行」


どういうわけか、人には能力の違いが存在する。

つまり、
それが生まれつきなのか、
養育時の環境の差なのか、
日々の努力の差なのか、
それとも他の何かなのか

それはともかく
人には能力の違いが現実に存在する。


その能力の違いに、さほどの差がなければ
当事者同士は良きライバルにとして
切磋琢磨するのかもしれない。


ああ、それは
少年漫画の友情と勝負の世界なり・・・


しかし、

能力発揮の結果が
1つしかない「何か」の奪い合いになるのなら
「美しいライバル」などとは言っていられない。
当事者同士は、
とてつもない張り詰めた緊張と戦いの中で
お互いの身を削りあうかもしれない。

それは時に、不幸を生むかもしれない。


そこで自分の古い知人がこういった。

「そういう場面が残酷なのだ。
 はじめから能力に差があれば
 あきらめもつくだろう・・・」


なるほど、そうか。

・・・

そうか?


そうではないかもしれない。


能力差があまりにも大きい違いを
現実の世界に見せつける時

能力がないと自覚した人間は、
以下のどれかに該当するかもしれない。

(1)自分のデキの悪さを意識した場合、
…ひがむ、ねたむ、嫉妬する、中傷する

(2)相手の優れた能力を認めて取り込みたい場合、
…ほめたりファンになったり心酔して同一化、あるいは
 利潤を生む金の卵と認めて「しがみつく」


なんだか、能力差が大きければ
好き嫌いの差も大きく出るような
そんな気がする。


では、

能力を持つ人間の側は、どうだろう。

能力が持つ価値から
人気や注目を集め、栄誉を得る。

が、

ねたみ、嫉妬の渦か
心酔者か利用しようとする人間の接近に
取り囲まれてしまう。

つまり、

対等で生産的な人間関係は
得にくいかもしれない。


それは、
孤独という不幸になってしまうのだろう。


(7/1補足
 最近は、力のある者が下の者に対して
 言葉や態度の暴力をつかう「パワハラ」
 という困ったこともあるようです。)

・・・

今あげたこれは、極端な例か?


こんなことはなく、
人間は互いの価値を尊重して
公平で平等で
愛ある世界を作っていくのだろうか?


いや、
それは、無理っぽい。

能力に個人差がある以上
公平や平等は
理念としては良いかもしれないが
実際には、ゆがみが生じる。


どうしてこんなことになるのか?
どうすればいいのだろうか?


さすれば、様々な価値観の人々が
口々に自分たちの説を唱える。

・・・

これは社会システムに問題があるからだ!
とすると、
政治家や社会運動家として生きることになる


これは教育環境に差があるからだ!
とすると、
教育家や教育実践活動家として生きることになる


人間性や情意面は、親のしつけの問題だ!
と言ってしまうと、
当事者である親への批判が行き過ぎ、
ひどいことになるので注意が必要だ、


自分ならばどう思うか

霊的な視点で考えてみたい。

まず、
この世的な能力があろうがなかろうが
不幸は不幸として起こるので
とりあえず、脇に置き、
それよりも、こういう事態に
大きく動揺する心情に注目したい。

おそらく、
勝ち負けや能力差を目の当たりにした時
どうしても、過剰に反応せずにはいられないという心情が
自分を含め、人の中にはあるのだろう。


この心情はどこからくるのか?
この心情の正体は何か?
そして、
ついとってしまう驚くような行動は
どこからくるのか?


ある程度は、生育歴や社会の価値観の影響もあるだろうが、

根深いところは・・・

「魂の歴史」ともいうべきものから発しているように思う。

霊的な身体である「幽体」に潜在する「未熟な心情」
この「心情」の解決をどうするかだと思う。

この「未熟な心情」を、霊魂学では
「霊的カルマ」と呼んでいる。


<このあたりや、ここから先の話は、自分の判断で記していますので
 私の理解度によるため、まちがえているかもしれません。
 まちがえているようでしたら、ごめんなさい>


一方、神秘学的な話では
「カルマ」を運命の負債としている。
すると、
負債を返すために「良いこと」をせよ、となる。
カルマが単に負債なら
それもいいことなのかもしれないが、
カルマが「未熟な心情」を指す場合は
「良いこと」をしたからといって
「未熟な心情」が成長して、解決するのだろうか?
必ずしもそうではないことが多々ある。


となると、
カルマというものが、
霊的な身体の「幽体」に潜在する「未熟な心情」を
指す場合は、
その「心情」の成長を促す霊的な技法が意味を持つ、
と思う。

その霊的な技法が、
自分が習っている霊的トレーニングである
「神伝禊法」であるのだけれども、

この霊的トレーニングは
実践しているうちに
地味ながらも
結構驚く変化を自分に起こしていた

それについては、また後日・・・


  • ?±??G???g???[?d????u?b?N?}?[?N???A

0 件のコメント :