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「神の沈黙」…(つぶや記)

公開日: 2010年2月11日木曜日 つぶや記

[2010.02.11]


「神の沈黙」と言われる疑問や問いかけが
あるそうです。

すなわち

『・・・
(神が本当に存在しているのなら)
 ・・・
 神はなぜ、沈黙しているのか。
 不条理なこの世の出来事を
 ただ見ているだけで、なぜ
 お救いになってくださらないのか。
 なぜ、我らの問いにお答えになって
 くださらないのか・・・』


というような内容だそうです。


この問いかけは、
信仰を持つ者にとっては根源的な問いで、
神の存在を問う者にとっても、神の不在の疑問に突き当たるようで
繰り返し投げかけられている問いのようです。


検索をすると、誰かしらこのテーマで
文章を書いておりますし、

小説などにおいても
このテーマで書かれた
有名な作品もあるようです。


このテーマに対する見解として
言われているのは・・・


神は沈黙していない、とする見解
人間には神の御心は計り知れないので理解が困難、とする見解
神は理由があって沈黙しており、そこには重要な意味がある、とする見解
・・・
というように様々な見解があるようです。


さて、

霊魂学を学んだ者として、
あるいは
神伝の法を実習している者として、

「神の沈黙」をどう考えるか
ということになるのですが、


自分としては、前々回の記事に書いたように
人間と「神」と呼ばれる存在との
「霊的な距離」をキーとして考えます。

つまり、人間と「神」なる存在の間に
接点が成立するのかどうか・・・
という点で考えます。



この内容をさらに推し進めると
そもそも霊的修行(霊的トレーニング)とは
いかなるものか?
ということに突き当たります。

それにつきましては次の文章を紹介します。
 ↓
禊 神秘の法
 六章 3 禊、それは人と神との契りの法(より一部抜粋)

 修行が進めば誰でも分かる常識が、神々の気であり、神々の実在である。これは修行に縁のない、文献を探っているだけの専門家には、一生かかってもわからないことである。

「修行が進めば誰でも分かる常識・・・」

自分も修行中の身でありますけれども、
残念ながらまだまだ理解できているとは言えません。

しかしながら、
修行を始める以前に比べて
数年か継続している現在では
ここに記されている文の意味については
納得できるものであります。

以前、
修行を知らない時期、そして
霊的な本の単なる読者であった時期は
神について、なぞ解きのように
想いを巡らせていましたが、
そういった、知的なパズルのレベルでは
神々や霊的な事柄は理解できないのだと
現在は思っております。


さて、最後にひとつ。

契山館で霊魂学について学び始めた頃
目にした文書の中で
かなりインパクトの強かったものに
以下の内容がありましたので
紹介させていただきます。
 ↓

霊との問答
 
 問答4 神はいますか?

「神はいますか?」

これは、霊的世界の
途方もない奥行きを感じる内容でした。

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